理念を貫き、進化する東京理科大学。Building a Better Future with Science

21人の創設者

東京大学 (旧東京帝国大学) 理学部仏語物理学科の卒業生ら21人により「東京物理学講習所」が創立され、そこから東京理科大学の歴史は始まりました。創立者たちの多くは大学や教育行政において黎明期の理学教育に大きな功績を残しています。

1. 東京物理学校 初代校長
寺尾 壽 1855-1923
福岡県士族 維持同盟員 理学博士
日本の天文学の基礎を築く。
創立者21人のリーダー的存在。

2. 東京物理学校 第二代校長
中村 精男 1855-1930
山口県士族 維持同盟員 理学博士
生涯を通して気象学研究に情熱を注ぎ、
気象事業の発展に尽力。

3. 東京物理学校 第三代校長
中村 恭平 1855-1934
愛知県士族 維持同盟員
教育者として学生指導や教員養成に奮闘、
夏目漱石とも親交を結ぶ。

4. 東京物理学校 同窓会長
三守 守 1859-1932
徳島県士族 維持同盟員
産業技術発展に貢献する人材を育成。
同窓会長として卒業生から敬愛された。

5. 東京物理学講習所校主
櫻井 房記 1852-1928
小泉八雲や夏目漱石の上司であり、物理学教育に力を注ぐ。

 

140年の歴史
1870-1881
理学」が限られた人にしか教授されていなかった明治初期。財力の背景を持たない20代の青年たちが、理学の学校を創立しようと志しました。
明治維新の激動の中で集められた英才たち
1870年、明治新政府は学問に優れた若者を東京に集めて教育を行う制度「貢進生」を創設し、全国から英才たちが大学南校(後に東京大学へと発展)に進学しました。本学の創立者たちのうち、8人が貢進生でした。ほかの創立者たちも幼少のころから郷土で才能を現し、外国語学校などで研鑽を積んできた者で、いずれも英才として新しい国家建設を期待されていました。東京大学理学部仏語物理学科は、1878年から1880年の間に20人の卒業生を輩出したところで廃止されました。1881年に本学の創立に加わった者は、このうち19人の理学士と中退した2人の21人でした。
国の恩に報いる青年理学士らの大志
創立者たちは、自らの報恩の証を理学普及という形で残したいと考え、一致団結。しかし、理学の普及を標榜して物理学校を創立したものの、経営は極めて厳しいものがありました。1897年に京都帝国大学に理工科大学(理学部と工学部の前身)が設置されるまで、理学を学ぶ学校として存続していたのは、東京大学以外は東京物理学校だけでした。東京物理学校で教育を受けた多くの卒業生は、明治・大正・昭和期の中等学校等の教壇に立ち、理学の普及に大きな役割を果たしていきます。

東京物理講習所から東京物理学校 1881-1905
移転を重ねながら教育環境の向上に努めた創成期。
幾多の困難に見舞われながらも、
理学普及の志を貫き乗り越えていきました。
東京物理学校の開校と維持同盟の結成
1881年9月11日、東京理科大学の前身、東京物理学講習所が開校しました。1882年11月、創立者たちは資金を持ち寄り、神田区今川小路に自前の校舎を新築しました。そして1883年、東京物理学講習所は東京物理学校に改称するとともに、フランス留学から帰国した寺尾壽が初代校長に就任し、新たなスタートを切りました。1885年、寺尾たちは東京物理学校の永続的な維持と発展のために、「東京物理学校維持同盟」を結成することを決め、一人あたり30円を醵金して強固な財政基盤を確立します。維持同盟には創立者21人のうち16人が参加し、その後の学校経営は、彼らの合議によって運営されていきました。
設備が整い、経営が安定した小川町校舎時代
今川小路校舎の倒壊後、東京物理学校はさらに移転を重ね、1886年に神田区小川町の建物を借用しました。小川町校舎には教室の他、物理実験室、化学実験室、教員室等、理学を学ぶ設備が用意されていました。1889年、東京物理学校は小川町校舎の持主から建物を購入し、借用時から20年間にわたりこの地で歴史を刻むことになります。

牛込神楽坂への移転と発展1906-1945
明治から大正、昭和へと時代が移る中で着実に規模を拡大させていった東京物理学校。戦時下もその歩みを止めることはありませんでした。
財団法人化し、専門学校へと昇格
1906年、東京物理学校は牛込区神楽町二丁目の土地を購入、木造2階建て白亜の校舎を建設して移転し、現在の神楽坂キャンパスが産声を上げました。創立以来、学校を牽引してきた維持同盟員も高齢に達し、東京物理学校は経営を同窓会に引き渡し、財団法人化して維持同盟を解散することを決定します。
1915年には財団法人東京物理学校の設立が文部省から認可されました。続いて、1917年に東京物理学校は数学・物理学・化学の教員養成を目的とする専門学校に昇格しました。

牛込神楽坂校舎

寺尾壽を記念する寺尾文庫

 

 

 

 

 

戦時下で多くの卒業生を輩出した応用理化学部
1934年4月、元東京帝国大学教授で、理化学研究所長を務める大河内正敏が東京物理学校第四代校長に就任します。大河内は従来の物理学、数学、化学の基礎的な理学教育に加えて、応用実践教育を施した技術者を養成するための応用理化学部の設置申請を行い、1935年に認可を受けました。応用理化学部には予想以上の応募があり、校舎の拡張と充実のため、1937年10月に鉄筋コンクリート4階建ての校舎を新築しました。一方、同年7月、日中戦争が勃発し、軍国主義の時代に巻き込まれていきます。東京物理学校では就職率の高い応用理化学部に人気が集まり、多くの卒業生を輩出していきました。

東京理科大の誕生1946-2020
大学として新たなスタートを切り、人材育成や科学技術の進歩に貢献し続けてきた東京理科大学。そのまなざしは常に未来に向けられています。
東京物理学校の終焉と理工系総合大学への発展
1949年2月21日、文部省より東京理科大学の設置が認可され、東京物理学校同窓会もこの前日、理窓会と改め、初代会長に小倉金之助が就任。1951年に東京物理学校はその幕を閉じました。1949年、新制東京理科大学は理学部第一部、理学部第二部にそれぞれ数学科、物理学科、化学科を開設し、初代学長には、元東北帝国大学総長でKS鋼の発明者で名高い本多光太郎が就任しました。1959年以降、本学は産業界の要請に応えるため、理学部第一部に応用化学科、応用物理学科を増設、さらに「よき理学の基礎の上に立つ薬学部」を理念として、1960年に薬学部が設置されました。また、日本の高度成長期における科学技術の進歩・技術革新に呼応するように、1962年に工学部が、1967年には、理学と工学を統合し科学の基礎理論とその応用を身につける理工学部が千葉県野田キャンパスに設置され、本学は理工系総合大学に発展を遂げました。
未来を見据えて進化し続ける東京理科大学
創立100周年を迎えた1981年には、学際領域の研究課題にも取り組む総合研究所が発足しました。現在では研究推進機構総合研究院に改組され、多くの研究部門と研究センターを擁しています。また、生命科学研究所は総合研究所の一部門からスタートし、1989年に独立。2012年に生命医科学研究所へと改称し、生命・医療に関する基礎的・応用的研究を推進する多様な優れた基礎生物学・医学研究者の陣容を擁する研究所を構築しています。

時代を拓いた先駆者達
創立以来、社会の発展に貢献する優れた技術者や研究者、理数系教育者を数多く輩出してきました。
屋井 先蔵 1863-1927
連続電気時計の開発を進め、
1887年「乾電池」を発明したと言われる。

小倉 金之助 1885-1962
数学者として活躍し、「科学大衆化」に貢献。東京物理学校全科を卒業し、
1939年東京物理学校理事長、1949年「理窓会」初代会長。

大河内 正敏 1878-1952
理化学研究所の発展を支え、次代の科学者育成につなげる。
理化学研究所第三代所長、1934年東京物理学校第四代校長。

本多 光太郎 1870-1954
世界初の永久磁石であるKS鋼を発明した「鉄鋼の父」。
1949年東京理科大学初代学長。

真島 正市 1886-1974
幅広い物理現象の研究を通し、応用物理学の確立に尽力。
応用物理学学会を設立、初代会長、1955年東京理科大学第二代学長。

大村 智 1935〜
微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索的研究で、3億人以上の人を感染症から救う。
2015年ノーベル生理学・医学賞受賞。

東京理科大学HPの祝140周年記念サイトから、要旨を紹介しており、今回は、21人の創設者、140年の歴史、時代を拓いた先駆者達を掲載しており、『理窓』次5月号では、TUS NOWを紹介します。より詳細は、HPで。

 

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