「西ひがし、ねむれ巴里」、金子光晴に感動して “ 渡仏、45年 ”

作品の前に立つ筆者

主な略歴

1973~1975年 ハマースミス美術大学(ロンドン)
1978~1981年 京都、 東京、 大阪で個展
1991年 ブールデル彫刻賞受賞
1993年 ブールデル美術館で受賞記念個展
1991年以来 ヨーロッパ各都市での国際アート展に出展
2003年 ジョセフ-アルベース財団の招待でコネチカット(米国)のアトリエに3ヶ月滞在
2003年以降 パリ、 ルクセンブルグ、 チューリッヒ等で個展
*フランス、スイス等の美術館で公共コレクション

理科大に入学・美術部に入る

当時は人工衛星が最初に打ち上げられた時代、僕も将来宇宙に関する仕事に就きたい、その為には大学で物理を学ばねばと理科大の物理学科に入学しました。
詰襟の学生服のまま上京し、東京には誰も知人も友人も無く、それまでは何のクラブ活動の経験もありません。ただ小さい頃から絵を画いてさえいれば幸福感に浸れるので勧誘されるまま美術部に入部しました。この美術部の部室というのが当時、神楽坂校舎(1号館)の脇、坂道の僅かな空間にバラックを建て美術部、オケラ(オーケストラ合奏部)、そして生研(生物研究部)の三つのクラブがそれぞれの部室を持ち、いつも騒々しいのは美術部だけでした。三人寄るとすぐにコンパ、1号館校舎とは独立しているので夜遅くまでいくら騒いでも誰からも文句を言われませんでした。ただ物理の授業から次第に遠ざかり、絵画にのめりこみ、物理学科に入学したというより美術部に入学したという感じが強く、理科大を辞めて美術学校に行こうかと思ったこともありました。それでも理科大は卒業、サラリーマン生活を始めたのですが、何事も熱し易く冷め易い単純な性格、すぐに労働組合の活動にのめり込みました。

片道切符でヘルシンキへ

2年組合活動を続けているうちに嫌気がさし、組合の先輩がヘルシンキで2年間生活した体験談を聞いているうちに僕も都会の煩わしい社会から逃れ第二の人生をヘルシンキで静かな生活を送りたいと思い立ちました。片道切符でヘルシンキへ、当時は横浜港からソビエト船でナホトカ、ハバロスク、モスクワと船と飛行機と汽車の旅、そしてヘルシンキに着きました。ヘルシンキでは、部屋を見つけてレストランで皿洗いのバイト、どうにか生活できるようになりましたが、部屋代を払うと画材等を買う余裕は全くありませんでした。

ヘルシンキからロンドン、そしてパリ

その頃、中学時代の幼馴染みの友人がロンドンで仕事をしており時々彼と電話のやりとりをしていたのですが、“ヘルシンキで埒が明かなければロンドンに来ないか”“簡単に言うけれどロンドンに行く金なんか無いよ”とのやりとりの数日後、彼が早速航空券を送ってくれ、彼のお陰で6ヶ月のヘルシンキの生活に見切りをつけ一路ロンドンへ行きました。ロンドンで皿洗いの生活を始め小さな部屋を借り、皿洗いの合間の夕方に美術学校に通う事ができました。
ロンドンの生活を続けていくうちに美術学校の教授とも親しくなりウィークエンドのティータイムに招待して下さりました。そして教授のおっしゃることは、もしプロのアーティストになりたいならパリかニューヨークの方が良いのでは勧められました。それもそうだと納得、しかし問題はパリでどうやって食っていくかでパリの状況を探る為に一週間程パリに住んでみる事にしました。

パリでの生活45年つづく

それが、1975年から思ってもみなかった長いパリでの生活の始まりです。さてパリの生活は天井が斜めになった屋根裏部屋、この二間続きのアパートに2年間住み、免税店の売り子を続けながら、夜は制作をしサロンに出品したりグループ展に参加と作品発表の機会も少しずつ増えていきました。そしてその後、何より忘れられないのはGalerie Denise Renéの経営者マダム、ドニーズ・ルネとの出会いです。1997年当時マダムは既に80才を超えていましたが毎日画廊にでて陣頭指揮を取っていました。そしてマダムが2012年に99才で亡くなるまでずっと援助して下さいました。お金に困ったら何時でも言ってくれと、僕もお金に困ると無心するのですが、その都度、マダムは僕に向かって貴方は貧乏だと。そう言われれば僕も一言返さなければ気に済まない性格、貧乏を誇りに思った事は無く、また貧乏を恥じだと思った事は無いと。
結局こんなフランス生活が長くなったのも、いろいろとアーティストを優遇するシステムがフランスにはあるからです。例えば国(文化省)が仲介を通さず直接アーティストから作品を買ったり、国やパリ市がアトリエを建設し低家賃でアーティストに貸だしたりすることです。
住めば都と言いますが、よくもフランスで45年も生きてこられたと自分自身でもビックリしています。

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