「厚板精密板金加工世界一をめざして!」

プロフィール
・東京理科大学評議員2013年~
・理窓会「坊っちゃん賞」受賞2015年
・株式会社富田製作所代表取締役社長2016年~

◆東京理科大での思い出
学生時代は、自宅からは原付バイクに乗って20分程で野田キャンパスに着いていた。学生の多くは地方出身者で、キャンパスの近くに下宿していた。大勢の友達に恵まれ、毎晩のように寝蔵を変えながら、酒を交わしたり、人生を語りあったりして青春を謳歌していた。その友人たちと厳しい定期試験の対策を練りながら勉強や旅行もたくさんすることができた。当時は夢と希望に満ち、何の不安の無い楽しい時代だった。

◆富田製作所の誕生 1956年
1951年(昭和26年)に、勤めていた鍛冶屋から、父(大八郎)はハンマー一本で独立した。仕事は焼け跡に転がっている鉄兜を拾ってきて、ハンマーで叩きフライパンや鍋などをつくったり、鉄屑を叩いて農具や器具をつくっていた。1953年に葛飾区四ツ木に工場を建てた。この頃から仕事は軌道に乗りはじめ、社員は少しずつ増えてきた。私が生まれた1956年に鍛冶屋を「富田製作所」と登記したのは独立してから5年後のことである。

◆富田製作所へ入社 1982年
父が経営する鉄工所で働く前に、父の知人の伸銅品問屋に1年間勤務した。その後に父の経営する富田製作所に入社した。小さな町工場ですが、「板金加工世界一の信用と信頼のある良質な製品を通じて社会に仕え奉る」という理念を掲げ、「板金加工世界一に成る為には、世界一の道具が必要!」と、父は私の入社を待って、当時世界最大級の一万トン・プレス機を発注した。お客様からも「責任持てないよ!」と言われ、従業員からも反対されたが、失敗しても、この設備は残るし、それを上手に動かす従業員も残る。そして私は、裸一貫の元に戻るだけ!」と言い、個人と会社の全財産を抵当に入れ、一家離散覚悟の挑戦にでた。そこで、「理学の普及を以て国運発展の基礎とする」理科大の「建学の精神」を垣間見る事ができた。1983年に10,000トン・プレス機が導入され、鍛冶屋職人の父の技と理科大で学んだ基礎知識、創造性と開拓者精神を融合させて、命がけで精度の高い鋼管を成形する技術の研究を重ね、JIS認証を収得し、厚板大径鋼管メーカーへと歩み始めた。
父は、第2次大戦中に、日本海軍が開発した「イ号401」潜水艦に搭載された攻撃型飛行機の整備兵を担当し、世界最先端技術に接していたこともあって、板金加工世界一になることと道具への執着心が強かった。その後、バブル景気で当時主力業務だったコマツ(旧:小松フォークリフト)のフォークリフトの部品の生産台数が3倍以上に増えた。そのため生産設備を無人フォークリフト、搬送ロボット、溶接ロボットやマシニングセンターを融合したFMS(フレキシブル・マシナリー・システム)を構築した。人を増やさず理科大で学んだ基礎知識、創造性、開拓者精神を発揮して、お客様にも大変喜ばれた。しかし、大径鋼管は、大きな場所を必要とするので、工場は直ぐに手狭となり、既に70歳を超えた父の一言で、社会に直接貢献できる製品を作る工場に着工することになった。

◆つくば工場の竣工 1994年
いざ土地探しとなると中々良い候補地が見つからなかった。そんな中、古河工場から車で30分程の下妻市に土地を見つけ、多くの困難を乗り越え20億円の予算で工場及び設備導入を行う事になった。そんな中、父の体が悪くなり社長を辞任し、長男の大治郎が2代目の社長に就任したが、私が一人で20億円の設備投資の責任を担う事になった。しかし、20億円の借金の重圧と責任からの孤独感と恐怖心で一杯だった。
元々、大径鋼管は大手高炉メーカーやその関連会社の領域で、大型プレスの曲げ加工は、造船会社の多い関西より西側の瀬戸内海に集中していた。そんな勢力図も知らず無謀な挑戦でした。仕事はほとんどない為、寝る暇を惜しみ毎日朝礼で、「まず、モノづくりより、人間としての心づくりだ!」と心に言い聞かせた。2年以上の努力を重ねた結果、徐々にお客様からの信用と信頼を頂き仕事が増えてきた。
特に飛躍することができたのは、羽田空港第4滑走路の桟橋杭の仕事だった。そこは、多摩川が東京湾に注ぎ、魚の絶好な産卵場を守る為に総量1万トン、パイプ本数が1,500本の鋼管杭で滑走路を支える仕事で、弊社の経営理念に一致し、社会に貢献できる仕事だと考え受注活動を行った。最大の難題は、Φ1,600*長さ9メートル(展開長5m*9m)の鋼管の素材を内陸にあるつくば工場に運ぶ道具を開発する事でした。試行錯誤を繰り返し、斜め台車を完成させ、特許を取得し、ぎりぎり受注する事ができた。

◆東京スカイツリーへの挑戦からの縁
昼夜交代の臨戦態勢の作業の中、今度は、東京スカイツリーの36,000トンの自重を支える鼎(かなえ)柱(Φ2,300*板厚100㎜*Lm)の製作依頼が舞い込んできた。大変厳しい品質と納期要求であったが、スカイツリーの建つ業平は、母の生誕地でもあり、何より世界一高い電波塔であり、父の入れた世界一の10,000トン・プレス機を活かす絶好の仕事で、避けては通れない「地図に載る仕事」だった。受注金額以上の設備投資を行い、厳しい納入検査に合格し、正月休みも二日間だけの厳しい納入対応だった。大変厳しい品質保証を要求する日建設計の設計担当者より「とても丁寧なモノづくりをしてますね!」と言われ、それまでの苦労が癒された。また、その後、同じ日建設計の部長より東京駅八重洲のグランルーフのデザイン重視の柱や梁の相談を受け受注する事になった。後日、グランルーフの大屋根には、当時藤嶋学長の純白さを保つ光触媒技術が使われ、理科大の技術との融合であり、嬉しく感じた。更に出雲大社の「勢留の大鳥居」の相談が有り、かつて「大阪天満宮」と「走って福男を決める西宮神社」の鳥居の製作実績が認められ受注した。また、その出来栄えが、神社仏閣の第一人者の馬庭設計事務所の社長に認められ、地元の茨城の鹿島神宮の授与棟や御手洗池の大鳥居に携わる事ができた。この様に、鉄の力強さと精悍さを素地のまま活かし、神々しい文化芸術にも貢献できたのも、ひとえに人の縁と「品質と技術の富田」の信用と信頼の力であると実感している。

◆更なる16,000トン・プレス機への挑戦を乗り越え
しかし、当時は、2008年のリーマンショックや2011年の東日本大震災が起こり、製造業は歴史的な円高や電力不足等の「六重苦」と言われ、主力のコマツの仕事は大幅に減産となった。そんな中、修(弟)が3代目の社長に就任し、「世界一になるには、実質世界一の16,000トン・プレス機を導入したい!」と唱えた。今度は、年間売上以上の30億円の投資に挑戦する事になった。これまでの実績でお客様からの知名度も上がり、また信用信頼も得ることができ、竣工式には茨城県橋本知事はじめ多くのお客様に列席を頂き、修社長は元気一杯で輝いていた。その1年半後に3代目の修社長の急死があり、2016年に4代目社長に就任したものの、会社は実質4期連続の大幅赤字経営だった。銀行からは虐められ、その膨大な借金の個人補償と経営の立て直しをしていかなければ成らず、正直生きている心地がしなかった。
ここで救ってくれたのが、父から受け継いだ「経営理念」を基に「富田製作所は何のために、誰の為にある会社なのか?」の原点に立ち戻る事だった。社会の貢献の為には先ず、「社員を幸せにする会社」にすることを目指した。そうした取り組みもあり、徐々に業績も回復してきた。

◆現在は洋上風力発電事業への取り組みへ
2021年に「令和3年戦略的基盤技術高度化支援事業」に採択され、洋上風力発電設備(洋上風力タワー)の基礎支柱となる大口径鋼管の「継手方法」に関する研究をした。鋼管と鋼管のつなぎ目の接合に機械式継手方式を茨城大学や産業総合研究所の協力を仰ぎながら研究を進めた。その成果を風力発電設備の支柱に生かしたい。すでに14基の風力の基礎用鋼管を納入が完了し、新たに25基分の製作に着手している。
また大口径鋼管は日本一高い超高層タワー「麻布台ヒルズ」のメインの柱にも使用されている。このように板金加工技術の富田は、現在も「企業は、人なり」で、人を活かす教育に取り組み、大勢の人の和(多様性)を活かし、スタッフや従業員の協力を得て、企業が成長していくことを学んでいる。

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